久しぶりのベッドで訪れた気づき
昨晩、久しぶりにベッドで眠ることができた。息子が発熱していた数日間、私はリビングに布団を敷いて寝ていた。熱でうなされて目を覚ます息子、咳き込んで苦しそうにする息子。その横で、なかなか眠れない夜が続いていた。看病の日々の中で、自分の睡眠は二の次になっていた。
そんな日々を経て、ようやく訪れた安らかな夜。ベッドに横になり、久々にゆっくりと眠りについた。午前2時頃までは途切れることなく眠ることができた。それだけでも、どれほど心身が休まったことか。
眠りにつく直前、私はスマートフォンでアダルトチルドレンに関する記事を読んでいた。その中で「寂しさ」という言葉が何度も出てきて、自然と自分の内面に意識が向いていった。そのまま眠りについたせいだろうか。午前2時に目が覚めた時、頭の中には「寂しさ」に関する様々な言葉が浮かんでいた。まるで、無意識の中で何かが語りかけてくるように。
封印してきた「寂しさ」という感情
考えてみれば、寂しいという気持ちは、これまで徹底的に閉じ込めてきた気がする。寂しいなんて気持ちは私にはない。そう思い込むことで、自分を守ってきたのかもしれない。寂しさを認めることは、自分の弱さを認めることだと、どこかで思っていたのだ。
だけど最近、その感情が頻繁に顔を出すようになった。「ああ、これは寂しいんだな」と気づく瞬間が増えてきた。寂しい、虚しい、惨め。そんな言葉が、心の奥底から湧き上がってくることが多くなった。
そして今日、「寂しさ」にフォーカスが当たった。寂しさと正面から向き合ってみようと思った時、一つの重要な気づきがあった。
寂しいと思っている真っ只中で、自分自身が「私は寂しい」なんて認めてしまったら、もう立っていることさえできなくなってしまうのではないか。そんな恐怖があったのだ。だからこそ、寂しいなんて気持ちは私にはないと、必死に隠してきたのだろう。
「私は一人でも大丈夫」 「寂しくなんかない」 「自分が寂しいなんて思うことはない」 「私は寂しい思いをするような可哀想な人ではない」
こうした思いが、心の奥深くに刻み込まれていた。そうか、私の中には「寂しい思いをする=可哀想な人」という方程式が存在していたのだ。でも、本当にそうだろうか?
寂しさの本質とは何か
辞書を引いてみると、寂しさとは次のように定義されている。
満ち足りないこと。欲しいものが得られなくて、物足りないこと。心細く感じられるような状態。あるべきものが欠けていて、物足りない、もの悲しい。孤独感、愛情の不足、心理的な喪失感。
これらの言葉を書き出した時、心の中に不思議な感覚が湧いてきた。「こんなことで寂しいと思っちゃいけない」「こんなことで寂しいと思うなんて変だ」といった、「こうあるべき」という思いが浮かんでくるのだ。
まだまだ私の中にも、こうした「べき論」があったんだなと気づく。でも、その気づき自体に、ちょっとした愛おしさを感じる。完璧でない自分、まだ途上にある自分を、そのまま受け入れられそうな気がするから。
でも、少し立ち止まって考えてみてほしい。こんなことで寂しいと思っちゃいけないなんて、本当にあるのだろうか?感情は自分だけのものではないか。自分がどんなことで、どんな状況で寂しいと思うかなんて、完全に自由であるべきではないか。
ポジティブ信仰からの解放
世の中には、ポジティブな感情こそが正しいという風潮がある。楽しい、ワクワクする、ウキウキする、喜び。そんな感情を持っていることが正しくて、その感情を持っているべきだと。そして、その感情の時間が長い方がいいと。
確かに、それは一理あるかもしれない。でも、悲しい、怒り、寂しい、うじうじとした感情を持っていてもいいのではないか。寂しがり屋の私でもいいじゃないか。
寂しがり屋というと、私の中では泣き虫のイメージにも繋がる。小さい頃から「泣いちゃいけない」と思って生きてきたから、「寂しいと思っちゃいけない」とも思っていたのかもしれない。
封印された子供時代の記憶
小学3年生よりは大きくなっていたある時のこと。母がどこかに出掛けていて、夜に家にいなかったことがあった。その時の感情を、私は今でも鮮明に覚えている。
とても悲しくて、寂しくて、勝手に涙が溢れてきた。おじいちゃんの家に行く準備をしている時、涙がこぼれてしまった。だけど、泣いちゃいけないと思っていたから、「目が痒くて」と誤魔化していた。
でも本当は、寂しくて悲しくて、思い切り泣きたかったのだ。今でもこの感覚を鮮明に覚えているということは、それだけ強烈な体験だったのだろう。
寂しかったね、当時の私。でも寂しいなんて思っちゃいけないって、思い込んでいたよね。どうしてあんなに寂しかったのだろうか。
母がいないことで不安を感じていたのか。心細かっただけなのか。それとも、もっと別の理由があったのか。いずれにしても、私にとって母は心の支えだったのだ。それは当たり前のことかもしれないが、その心の支えが1日でもいないと、深い不安を感じる子供だった。
子どもたちから学ぶ感情表現の大切さ
今、自分の息子と娘を見ていて思うことがある。私がたった数分、トイレに行っているだけで、「ママ〜?どこ〜?」と大声で呼んでくる。そして娘に至っては、「ママいなくて寂しかったよ」と、とてもはっきりと言ってくる。
娘はすぐに泣く。うまくいかなかったら泣く。寂しくても泣く。悔しくても泣く。本当にすぐ泣く。それも、すごく大きな声で。
いいよね、泣けるって。泣けるって素晴らしいことだと思う。
私も昔はよく泣いていた。HSP(Highly Sensitive Person)の気質もあって、勝手に涙が流れてきてしまうこともあった。だけど、ある時「涙は女の武器」なんて言葉を聞いてしまった。その瞬間、もう泣いちゃいけないんだと思い込んでしまった。
でも待てよ。「女の武器」とは言われたけれど、「泣いちゃいけない」なんて誰にも言われていないではないか。なんという思い込みだろう。私が勝手に解釈して、自分で自分を縛っていたのだ。
どれほどの時間、この「泣いちゃいけない」という思い込みで、自分の感情を抑え込んできたことか。今思うと、もったいない時間を過ごしてきたと思う。
感情を解放する幸せ
今の私はすぐに泣く。息子の発表会のプログラムを見て泣く。運動会を見て泣く。発表会を見て泣く。他の誰も泣いていなくても、一人でボロボロと涙を流して泣く。
泣いていいじゃないか。だって、溢れてくるんだもの。止められないんだもの。大泣きしたいよ。泣けるって、本当に幸せなことだ。
なんでもいいのだ。自分の感情を、感じた時に、感じたままに表現できるということが幸せなのだ。嬉しい時に喜ぶことも、楽しい時に歌いたくなったり踊りたくなったりすることも。
なんだっていい。感じたことを感じたままに表現できる。それが最高に幸せなことだ。
怒りでもいい。言いたいことを言えばいい。それを言える相手というのは、相当信頼している人だ。そんな人がいるって、幸せなことだ。一人じゃないんだから。
寂しさとの向き合い方
では、寂しさはどうやって解消しようか?物足りない感覚を、どうやって埋めようか?どうやって表現しようか?
方法はいくつかある。寂しいと素直に伝える。ハグをする。おいしいものを食べる。自分を労わる時間を持つ。
でも、最も大切なのは、自分にとって何が寂しかったのかを知ることだ。それを埋める方法は何なのか。それを、自分自身に聞いてみる。ジャーナリングという方法を使って、自分の内面と対話してみる。
答えは全て自分の中にある。インスタグラムにも、どこにも答えはない。あるのは常に自分の中だ。
何が寂しかったのか?何が物足りなかったのか?もっと何が欲しかったのか?それを埋めるには何が必要か?どうしたら埋められるのか?どうしたら満たされるのか?
こうした問いを自分に投げかけ、ジャーナリングを通して自分の中の答えを探し出す。そんな楽しいことはないのだ。
感情を感じることの豊かさ
寂しさを認めることは、弱さを認めることではない。それは、自分の感情に正直になることだ。自分の心の声に耳を傾けることだ。そして、その感情と丁寧に向き合うことだ。
ポジティブな感情だけが価値があるわけではない。ネガティブと呼ばれる感情にも、大切なメッセージが込められている。寂しさは、私たちに何かが足りないことを教えてくれる。悲しみは、大切なものを失ったことを教えてくれる。怒りは、自分の境界線が侵されたことを教えてくれる。
これらの感情を否定せず、受け入れることで、私たちはより豊かな人間になれるのではないだろうか。感情の全てを味わうことで、人生をより深く生きることができるのではないだろうか。
子どもたちが教えてくれる。感情を素直に表現することの美しさを。泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑い、寂しい時に「寂しい」と言える。そんなシンプルで、でも多くの大人が忘れてしまったことを。
私も、もう一度その感覚を取り戻したい。感じたことを感じたままに表現できる自分でありたい。それが、自分らしく生きるということなのだから。
ジャーナリングは、そのための素晴らしいツールだ。自分の内面と対話し、封印してきた感情を解放し、本当の自分と出会う。そんな旅を、ジャーナリングは可能にしてくれる。
寂しさと向き合うこと。それは自分自身と向き合うこと。そして、自分を深く理解し、愛することへの第一歩なのだ。
感情を感じることは、生きていることの証だ。喜びも悲しみも、楽しさも寂しさも、全てが私たちの人生を彩る大切な色なのだ。その全てを受け入れ、味わい、表現していく。それこそが、豊かに生きるということではないだろうか。
ジャーナリングを通して、自分の中の答えを見つける旅を始めよう。そこには、きっと幸せへの道が開けているはずだから。